書評 どぜう屋助七(注1)

 連休中、少しは畑違いをと思い何度か寄った浅草の老舗どぜう屋を舞台にした本を手に入れ、読んでみましたらイノベーション(注2)を思い出してしまいました。

 享和元年(1801年)に創業した駒形どぜう「越後屋」の史実に基づいた物語りです。創業から200年以上経ちましたが、現在も営業していることはご存知の通りです。三代目助七が店主として営業していた頃は、1853年(嘉永6年)に黒船来航し、1867年(慶応3年)には大政奉還がされており、日本が代わって来た時です。その中で、何事にも前向きな三代目助七が時代に流れながらも、駒形どぜうを守って行きます。

 初代は安永5年(1775年)現在の埼玉県吉川市生まれで、郷里では鰻や鯰の産地でドジョウも採れるので江戸で一膳飯屋を始めたところ、大火で店が焼け落ち、ドジョウが四文字で縁起が悪いと思い「どぜう」と暖簾に当時名のある書道家に書き直しています。二代目養子平蔵は初代からの味を守るべく、自分の舌で日々味見をしているほど、頑なな一面を持っていました。三代目は、この本の主人公で遊び人ですが、一方では京の料理屋に潜り込んでは飯の早い炊き方や牛蒡を薄くささかきする仕方を学んだり、卵焼きや野菜の煮つけの素は昆布の出し汁にあることを会得して持ち帰ります。また、上方の五十鯨屋から鯨肉を買い付けて、江戸へ船で送り,新しもの好きの江戸っ子の舌を引き付けます。このように単なる遊び人ではないようで、新しいものを取り込む気持ちがあります。

 

プロダクト・イノベーション

 創業から「越後屋」はどぜう汁と飯の「じょろ膳」を出していましたが、どぜう汁に適する大きさのどじょうが取れないと休業しています。他店では大きさに拘らず骨をとったどじょうを柳川鍋に仕立てていますが、二代目は「うちは裂きはやらない」と許しません。そこで、三代目は新たな鍋を考案します。新しい鍋を創りあげてゆく過程は、本をお読みください。周りを巻きこんだ仕方は見事のものです。また、三代目の妹は利き酒に長じおり膳にあう酒を出して、酒の売り上げを伸ばしていています。

 こんなように鍋を革新したりしており、プロダクト・イノベーションがされていました。

 

プロセス・イノベーション

 店を閉めた後、ボヤが起きたのは座布団に客が吸い残したたばこの火が残っていたからで、三代目はその後は座布団あらため「ざぶてん」を行っています。全員に午睡を強制し、夕方からの体力を養ったり、重い樽などを持ち上げる男衆には腰痛予防の四股を閉店後に行ったりしたのも三代目です。また、漢文を学んだ女中を講師に仕立てて寺子屋を行い、店の者だけでなく近所の者たちにも開放しており、従業員教育や地域貢献にも力を入れています。

 大地震が起きると、復興景気で鼻息の荒い大工など職人、なまず絵などで大当たりの浮世絵師や戯作者などが、新案の鍋を囲んでいます。麻疹が流行って、客足が遠のくと、どぜう講釈」を始めて客足が戻ります。これが新しい社交場になりました。

 プロセス・イノベーションとも言えるようなことです。

 

マネジメント・イノベーション

 三代目は、今でいう熱中症で急死します。四代目は、三代目までの経営では店に殆ど利益が残らないままに推移してきたことを良く見ていました。三代目存命中の10歳の時に観音様に「ここまでの間の土地を買って自分の土地だけ踏んで観音様にお詣りできますように」拝んでいます。後年、四代目は自分の思いをなし遂げて、自身の仕事は「不動産管理業」と称していますが、ドぜう屋の経営を支えるために不動産による収入などを注ぎ込んでいます。一方では、四代目は祖父の二代目の三つの戒めを守って、後世に残しています。「何をかえて、何を残すのか」を考えています。

マネジメント・イノベーションとも言えるようなことです。

本を読んだ後、いつの時代も新しいことを続けてゆかないと消えてしまうことをあらためて思いました。

中小企業診断士 窪田 靖彦

 

 

(注1)ドぜう屋助七 河治和香著 実業之日本社文庫 

(注2)物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」を創造すること。